もし、あの鉄道が残っていたら──与那原駅舎が語る、100年前にあった「駅前」という風景

与那原軽便鉄道コラム素材⑤

「駅から徒歩5分」「駅前マンション」──本土では当たり前のこの言葉が、沖縄にはなかなかありません。ゆいレールのある那覇と浦添を除けば、沖縄は完全な車社会。でも、100年前の沖縄には、鉄道がありました。1914年(大正3年)に開業した軽便鉄道は、那覇と与那原、嘉手納、糸満を結び、最終列車で飲み会から帰る人、那覇の学校に通う女学生たちを乗せて走っていました。「駅前」を中心に街が広がり、人が集まり、商店が並んでいた風景。それは戦争によって失われ、沖縄は車依存の社会へと変わっていきました。もし、あの鉄道が残っていたら──。与那原町の与那原駅舎展示資料館で、失われた「駅前」という風景に想いを馳せてみませんか。

この方にお話しを伺いました!
軽便鉄道喜納さん

 

喜納 大作 さん

与那原駅舎展示資料館スタッフ

与那原町にある与那原駅舎展示資料館で、沖縄の鉄道の歴史を伝える活動をしている。1914年から沖縄戦まで走っていた軽便鉄道の記録を丁寧に読み解き、わかりやすい展示で解説している。
   
与那原町立軽便与那原駅舎展示資料館
  
https://www.yonabaruekisha.com/

1914年、沖縄を走り始めた軽便鉄道

  
与那原軽便鉄道コラム素材①   
  
与那原町の旧駅舎。今は「与那原駅舎展示資料館」として復元されたこの建物が、かつて沖縄の鉄道の終着駅であり、那覇への出発口だったことを知る人はどれくらいいるでしょうか。
  
「1914年、大正3年に、沖縄で初めての本格的な鉄道が開業しました。那覇と与那原を結ぶ『与那原線』です」
  
そう語るのは、資料館スタッフの喜納大作さん。
  
明治の終わりに「軽便鉄道法」という法律ができたことで、鉄道業への参入ハードルが下がり、全国各地で鉄道が作られるようになりました。沖縄もその流れに乗り、沖縄県が事業主体となって建設が進められたのです。
  
「最初は与那原線と糸満線を同時に申請したんですが、まず与那原線から作ることになりました。1914年の開業です。実は東京駅の開業と同じ年なんですよ」
  
その頃の沖縄は、まだ農家が多く、今のような通勤需要があったわけではありません。
  
「ただ、物流の需要はありました。各地で産業が発展していて、その輸送手段として鉄道が求められていたんです」
  

与那原は「東海岸の物流拠点」だった

   
なぜ、最初の路線が与那原だったのでしょうか。
   
「もともと与那原が、物流の拠点だったからです。ヤンバルから船などで物資を運んで、与那原経由で首里や那覇に届けるという流れがありました。それを近代化して、鉄道でできないかと考えられたんです」
   
後年、今の58号線沿いには嘉手納線が、東海岸にも馬車軌道がつくられました。それぞれが那覇と与那原を結んでいて、その間を繋いでいる与那原線が栄えるのは必然でした。
   
「東西を結ぶという意味で、与那原線は非常に重要な路線でした」
   

「終電で帰る」「学校に通う」──鉄道があった日常

   
与那原軽便鉄道コラム素材②
   
物流だけでなく、人も乗せていた軽便鉄道。どんな人たちが利用していたのでしょうか。
   
「行商の人たちも多かったですね。与那原から那覇に行って、物を売って帰ってくる。あとは、学生たちです」
   
特に印象的なのが、通学に使っていた学生たちの姿。
   
「高等教育の学校は各地にあるわけではなかったので、学校に通うために鉄道を使っていました。ひめゆり学徒隊で知られる女学生たちも、校舎のある安里(現那覇市。当時は真和志村)まで、この鉄道で通学していたんです」
   
そして、もう一つ興味深いのが、「終電」の存在です。
   
「ダイヤを見ると、結構遅くまで運行していたので、那覇で飲んで最終列車で帰る、みたいなこともできたんですよ。そう考えると、今も鉄道があったなら、沖縄でも終電で帰るという県外と同じような生活スタイルも続いていたかもしれないですね」
   
今ではなかなか見られませんが、「駅前で待ち合わせ」「最終列車で帰宅」という、ごく当たり前の風景が、100年前の沖縄にはあったのです。
   

開業20年、利用者増加で生まれたコンクリート駅舎

   
与那原軽便鉄道コラム素材➂   
   
開業から約20年後の1931年(昭和6年)、与那原駅舎はコンクリート建築に建て替えられました。
   
「木造だったので、シロアリに食われたりして老朽化していたそうです。海も近いですし、耐久性のあるコンクリートにしようという判断だったと思います」
   
当時、全ての駅舎が木造だった中で、与那原がいち早くコンクリート化されたのは、それだけ利用者が多く、重要な駅だったからです。
   
「旅客ホームを線路をまたぐ島式ホームから、駅舎にくっつける形に改修したり、物流倉庫を作ったり、駅自体も拡張していきました」
   
今、資料館になっている建物の外観は、この時のコンクリート駅舎を復元したものです。
   

戦争という不可抗力が、すべてを奪った

   
与那原軽便鉄道コラム素材④   
   
当時のまま残る、駅舎の柱
   
順調に発展していた軽便鉄道ですが、昭和12年頃から戦争の影響が出始めます。
   
「日中戦争が始まって、燃料制限がかかったんです。ガソリンカーという新型車両も導入されていたんですが、ガソリンが手に入らなくなって、出番が減りました」
   
石炭も節約するために、木炭で走るように改造したり、ダイヤを減らしたり。所要時間も徐々に延びていきました。
   
「そして1944年、昭和19年になると、もう一般利用は認められなくなりました。軍事物資や避難民の輸送に制限される形になったんです」
   
沖縄戦が始まると、線路は爆撃され、駅舎も被害を受けました。ただ、コンクリート造だった与那原駅舎は、ある程度形を残すことができたのです。
   
「戦後の写真を見ると、米兵がこの駅舎で休憩している様子が写っています。線路自体は破壊されたり、戦車が通って曲がったり、戦後にスクラップとして回収されたりして、ほとんど残っていません」
   

「そのうち復興する」期待は、なぜ消えたのか

   
戦争で失われた鉄道。なぜ、戦後に復活しなかったのでしょうか。
   
「実は、米軍も最初は復興を考えていたんです。当時の知事である志喜屋孝信さんが復興したいと要望を出して、米軍も『陸上交通として鉄道の復活は重要だ』と言っていました。資材を調達中だから待ってほしい、と」
   
しかし資材は届かず、担当者も交代してしまい、話はうやむやになっていきました。
   
「50年代、60年代の議会録を見ると、『そのうち鉄道が復興する予定だから』という議論が出ていたりします。まだ、鉄道復興への期待があったんですね」
   
また1972年の本土復帰の時、国鉄を沖縄にも作ってほしいという要望は、タイミング悪く却下されました。
   
「ちょうど国鉄の赤字問題が深刻化していた時期だったんです。新しい路線を作るのは難しいと」
   
そうして沖縄から鉄道が姿を消したまま、駅舎は役場や農協として使われ、「駅」だったことを知る人も少なくなっていったのです。
   

駅前に集まる店、駅近マンションの価値──失われた風景

   
「もし、あの鉄道が残っていたら、沖縄はどうなっていたと思いますか?」
   
喜納さんは、即座にこう答えました。
   
「街並みが全部変わっていたと思います」
   
「沖縄は、よくも悪くも街が広がっているんです。県外だと、駅を中心にコンパクトに街が形成されていきます。『駅から徒歩何分』という価値が生まれるから、街がキュッと集まる。でも沖縄は、車でどこまでも行けるから、まんべんない開発となっています」
   
結果として、車がないと生活できない社会になってしまったのです。
   
「与那原だけ見ても、沖縄そばのお店だけでなく、ハンバーガーや牛丼などのファストフードチェーンもある。でも全部散らばっているんです。ここが満席だったら、次の場所まで車で移動しないといけない」
   
もし駅が生きていたら、駅ビルができたり、商業施設が駅周辺に集まったりして、相乗効果でさらに店が増え、人も集まる。
   
「そうすると、駅を中心に街が広がっていって、それぞれの駅が特色を持った街になっていたはずです。駅前のマンションだったら、それだけで付加価値があって、家賃も全然違っていたかもしれません」
   

名護まで1時間、1300円で。広がるはずだった経済圏

   
与那原軽便鉄道コラム素材⑤   
   
喜納さんは、経済面での影響も指摘します。
   
「例えば、那覇から名護まで70キロとして、同じくらいの距離感を県外だったら1300円くらいで行ける(大阪〜加古川間72キロを新快速で52分/1300円)。名護までそれくらいで行けたかもしれない。しかも乗っている間、仕事もできる。そうしたら、名護まで営業に行くのも気軽にできますよね」
   
でも今は、車で名護まで営業に行くのはハードルが高い。
   
「県外の都市圏のように鉄道がしっかりしている地域だったら、もうちょっと商圏が広かったかもしれない。でも今の沖縄は狭くなってしまっていると感じます」
   
教育面でも同じです。
   
「名護から那覇の高校に通いたいと思っても、今は寮に入るか、親が送迎するか。でも鉄道があれば、通学できたかもしれない。親が送迎するにしても、親の負担になって大変ですよね」
   
「駅前」という概念がないことで、沖縄の経済も、教育も、可能性を狭めてしまっているのかもしれません。
   

全国ワースト。沖縄だけが異常な「車依存社会」

   
喜納さんは、一枚の資料を見せてくれました。それは、通勤・通学の主な交通手段を示したグラフです。
   
「沖縄は自家用車が66%。鉄道・バスは6.2%しかありません。一方、兵庫県は自家用車が36%で、鉄道・バスも約36%。全国平均でも、自家用車は46%程度なんです」
   
沖縄だけが、ダントツで車依存の社会になっているのです。
   
「通勤・通学で公共交通を利用している人の割合は、沖縄が一番低い。しかも、年間1000万人を超える観光客など、この調査には出てこない人の移動もあります」
   
その結果が、慢性的な渋滞です。
   

県の鉄道計画を見ながら、10年後の「駅前」を想像する

   
実は今、沖縄県は新しい鉄道の導入を計画しています。
   
「県のホームページを見ると、どういう路線でどのあたりに駅を作るか、ざっくりとですが計画が載っています」
   
喜納さんは、その計画も見ながら、これからの街づくりを考えてほしいといいます。
   
「車社会を全否定するわけではありません。車も大切です。でも、一部は鉄道で移動する人が増えれば、道路のスペースが空いて、車でしか移動できない人がもっと便利に移動できるようになるはずです」
   
緊急車両が渋滞で通れない、という問題も解決できるかもしれません。
   
「駅ができそうなところのマンションを買っておけば、10年後、20年後に駅前になるかもしれない。そういうことも考えながら、マンション選びを楽しむのも面白いんじゃないでしょうか」
   

「もしも」を想像する余白が、暮らしを豊かにする

   
与那原軽便鉄道コラム素材⑥   
   
最後に、喜納さんはこうメッセージを送ります。
   
「戦前に鉄道があったという事実を、まず知ってほしい。そして今、県の鉄軌道計画や与那原町のLRT導入の構想があります。車社会を見直すきっかけの一つに、この資料館がなればいいなと思っています」
   
与那原町の与那原駅舎展示資料館には、当時の写真や資料、復元された駅舎があります。100年前、駅前に集った人々の姿を想像することができます。
   
最終列車で帰る人、那覇の学校に通う女学生、物資を運ぶ商人たち。「駅前」を中心に広がっていた街の風景。
   
もし、あの鉄道が残っていたら──。
   
そんな「もしも」を想像しながら暮らすことは、日常に小さな「余白」を作ることかもしれません。マンション選びの時、「もしここに駅ができたら」と想像してみる。通勤の渋滞にイライラした時、「鉄道があったら」と考えてみる。
   
与那原町の駅舎で、100年前の「駅前」に想いを馳せてみませんか。
ノスタルジーという名の余白を持つことで、今の暮らしが少し違って見えてくるかもしれませんよ。
   

取材・文/新垣 隆磨

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